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覚えていないと駄目なの?

京大入試カンニング事件は偽計業務妨害容疑で仙台市内の予備校生が逮捕され、大騒ぎとなった。
ところで、そもそもカンニングって犯罪なのだろうか?

言うまでも無く、犯罪なんかである訳がない!
ただのズルだ。
嵐の無料コンサート会場に入る為の長い列に横入りするのと、本質的には、あまりかわらない。
それを国家権力を介入させて捜査逮捕するなんて馬鹿げた話だ。

やり得にしなかったというのは、大いに評価できるところなのだが、この事件を通して、教育問題のひずみが垣間見えたりもする。

まぁ、どんな事情があれ、ズルは駄目よ。ズルは。
でも、それは躾とか価値観の問題であって、犯罪ではない。
それを警察沙汰にして、偽計業務妨害なんていう別件逮捕みたいな容疑で逮捕するのは、ホリエモン事件を連想させる。(カンニングを逮捕するなら横入りも逮捕しないと不公平だ。)

さて、もっと本質的な話をしよう。

そもそも、カンニングってズルなのか?

ビジネスの社会ではYahoo知恵袋を使って迅速に正解を導き出し活用することは、褒められる事はあっても犯罪者扱いされることは無い。
それが今回のケースでは犯罪者となった。

まず、根底の話として、学校というのはなぜ存在するのだろうか?

いずれ社会に旅立つにあたって最低限必要な知識経験、道徳価値観を学ぶところである、と、僕は思う。
言い換えると「読み書きそろばん」と「倫理道徳」と「一般教養」の3つを身に付けるところだと思う。

99%の学生や生徒は、いずれビジネス社会に旅立っていく。
学校社会で一生を過ごすのは、教職員と研究者だけだ。
ほとんどすべての人達は卒業後は社会の荒波の中に船出していき、ビジネスの世界で戦っていく。

であるなら、ビジネス社会で有効活用できる経験や知識を、身に付けることができる学校こそ、価値が高い。
高度化した「読み書きそろばん」を教える事が必要なのですよ。(大原専門学校の宣伝ではないが。。。)

では、その「高度な読み書きそろばん」って何だろう?

以前は、知識であるとか記憶というモノの価値は高かった。
何かわからない事があったら百科事典で調べたりしながら、仕事に活かしたものだ。
そんな、百科事典は持ち歩けないし、書いてある内容も限定的でかつ、最新ではない。

なのでビジネスを遂行していく上でわからない事があると、国会図書館に調べに行ったり、あちこちの専門家を取材したりして、情報を集めて、それを組み合わせたり、応用して、企画案などを作成するのが普通だった。

でも、今は違う。
わからないことは、グーグル先生が教えてくれる。
それも即座にだ。

提案先のお客様会社の受付で待つ間に「あれって何だっけ?」を携帯電話で調べることができる。
極端な話、お客様と商談中に「ちょっと調べてみますね」と言いつつ、PC端末を指し示しつつ、数秒間で結果を見せられる。
つまり、記憶や知識そのものについての価値は著しく低くなったのだ。

記憶だとか知識そのものよりも、それを選別する能力であったり組み合わせたり応用する能力が問われる、というか、そこでしか差がつかない時代となっている。

「海苔の佃煮の作り方」を教えて欲しい、と言って携帯電話を渡せば、ほとんどの人が数分以内に正解に辿りつけるだろう。
なので、こんなもんを記憶することに時間や労力を使うのは無駄でもある。
こんなもんを試験問題化するのは愚の骨頂でもある。

もちろん、考えることの基礎となる記憶は必要ですよ。
「H2O」という文字列を見て「H」は何かをググって「あー水素か」「O」をググって「あー酸素か。「H2O」は水かー。」って、そんなレベルは知っておけよという話ではある。

西郷隆盛が何をした人で、徳川家康はどんな時代を生きたのか?
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を暗誦する必要は無いけども、どんな話なのか位は、知っておいて欲しい。

エキサイト翻訳があるので、外国語は不要か?って、そんなことはあり得ないのと同じ事。

ただね、記憶を問う問題というのは試験にしやすい。
正解は一つしかないことが多いし、正解かどうかが一目瞭然なものが多い。機械的に合否を出しやすいのだ。

一方、学校では、次の段階の入試で問われるものを教えて欲しいというニーズが元々高いため、試験で問われるモノを教えることを最優先課題とされがちである。
その結果、本来の目的から逸脱し始めるわけだ。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んで組織運営に応用できる事例を3つ挙げよ、というのと、「蜘蛛の糸」の冒頭の30文字を、一語一句間違わずに書かせるのでは、どちらが採点し易いか?

30文字書かせることの採点は簡単だし明確だが、それは教養以上の何の意味もなさないのは言うまでも無い。

それに対して、前者は採点が非常に難しい。
正解は無数にあるし、採点者によって点数が変わる可能性もある。
さて、社会人にとって本当に必要な考え方を学ぶには、どちらの問題がよりベターなのだろうか?

以前も書いたので記憶されている方もいるかもしれないが、アメリカのある高校の試験ではカンニングし放題としている。
記憶を問う様な単純な問題ではないため、カンニングでは、答えが導きだせないのだ。
これは採点は大変だろうけど、実践的な力を問うものである可能性が高い。

シェイクスピアを暗誦するのは教養レベルの話であり、その部分はビジネスの実社会では「プラスα」の部分である。
教養というのは人生のスパイスにはなるが、メインディッシュの中心的な素材にはならないのよね。

なのに、教養以前に身に付けなければならないところは、学校社会では、あまり力を入れてトレーニングされていない。
というか教養部分ばかりを一所懸命教えていたりする。

なので、どの会社も新入社員教育に膨大な金と時間がかかっている。
最高学府を優秀な成績で卒業してきた奴でさえ、そのままでは社会では通用しない(涙)

課題やテーマを与えても、自分一人で考えてウンウン唸っている。
そして、制限時間が過ぎ、白紙の回答を出してきた。

違げーだろー。わからなきゃ、聞けよ。聞いてまわれよ。
調べろよ、ググればいーじゃん。
(さらには)わかんなくても、何かは書けよ。
課題とは関係ない自分の想いでも熱く書いてみたら?
5点くらいはもらえるかもよ?

え?いーんですか?って、いーんだよ。
ビジネスの世界では、犯罪以外は何をやってもいいのだ。
極端に聞こえるが、それが現実。

仕事を取るのに美しい提案書を作ってもいいし、手書きだけど超効果的なアイデアを提案してもいい。
そんなアイデアなんて湧かない?
なら、ゴルフに誘って接待して、美味しい料理とお酒を飲ませたってよいのよ。相手が公務員でなければね。

結果を出せた者が勝ち。

運動会で手をつないでゴールしてちゃ駄目なの。
最初っから2位を目指しちゃ、駄目なのよ。
1位を目指すから、結果として2位や3位が取れる訳で、最初から2位を目指したって、入賞なんてできるわきゃーねーって。
世の中そんなに甘くないからね。

記憶を問う試験でいくら成績を上げても、仕事はできない。
一般社会で幸せに生きていくための方法は、今の学校では教えてくれない。

「海苔の佃煮の作り方」で点数をもらえるのは学校社会だけだ。

「海苔の佃煮」と「塩クッキ―」のレシピを組み合わせて「海苔の佃煮を使った塩味の効いた美味しいお菓子」のレシピを考え出して、初めて実社会ではちょっとだけ点数がもらえる。

カンニングOKの試験で入試をする学校が日本でも現れたら、少しは理想の教育に近づくのかもしれないね。



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